田沼意次の名を検索すると、今なお「わいろ」「汚職」というネガティブワードが上位を占めます。当時の江戸では狂歌として「役人の子はにぎにぎをよく覚え」と皮肉られ、賄賂を受け取る仕草が定着したと伝えられています。しかし、歴史の事実を丹念に紐解くと、そこには「制度化された献金」と「階級社会の激しい嫉妬」という構造的背景が存在していました。
そもそも江戸時代の武家社会において、官職への就任や許認可の取得に際し、仲介者や上役へ金品を贈る行為は「付け届け」と呼ばれる慣習的礼儀でした。田沼意次は、商人の陳情や利権参入を認めるにあたり、これまで非公式に行われていた金品のやり取りを幕府公認の「運上金・冥加金」という公的税制へ組み替えようとしたのです。
それにもかかわらず、なぜ意次個人がこれほど激しく糾弾されたのか。その最大の理由は、門閥譜代大名たちのすさまじいルサンチマンでした。
紀州藩の足軽出身とも言われる微賤な家系から、第9代将軍・徳川家重、第10代将軍・徳川家治の寵愛を一身に受けて大名・側用人・老中へと異例の出世を遂げた田沼家。家格と血統がすべてを支配する幕府中枢において、成り上がりの意次が権力を握り、名門大名たちを指図する姿は、守旧派にとって許しがたい屈辱でした。彼らは田沼派の商人優遇政策を「武士の風上にも置けない金権腐敗」「武士道を汚すわいろ政治」と猛烈にネガティブキャンペーンを展開したのです。