『世界の始まり』が辿った所蔵の歴史は、それ自体が一編のサスペンス小説のような軌跡を描いています。最初の所有者ハリル・ベイが破産したのち、絵画は画商やコレクターの手を転々としました。第二次世界大戦中にはブダペストで略奪の危機に瀕し、戦後に至って精神分析の泰斗ジャック・ラカン(Jacques Lacan)とその妻シルヴィア・バタイユの手に渡ります。
ラカンはこの作品を別荘に秘蔵し、義理の兄弟であった画家アンドレ・マッソンに特製の「スライド式二重額縁」を作らせました。その外側には、クールベの構図を抽象的になぞった風景画が嵌め込まれ、選ばれた客人にのみ覆いを外して本体を見せるという演出を行っていたのです。精神分析学において「見ること」と「欲望」のメカニズムを探求したラカンにとって、この絵画は思索の中心に位置する象徴でした。
1981年のラカンの死去に伴い、遺族は莫大な相続税の物納制度(ダシオン)を利用してフランス国家へ絵画を譲渡。1995年、ついにオルセー美術館(Musée d'Orsay)の常設展示室でお披露目されました。開館当時、警備員が常時張り付く厳戒態勢の中で公開されたキャンバスの前には連日長蛇の列ができ、現代の観客にも圧倒的な視覚的衝撃を与えました。
さらに21世紀に入り、本作はデジタル空間における「表現の自由」を巡る象徴的な事件を引き起こします。2011年、フランスの高校教師が本作の画像をFacebookに投稿したところ、事前警告なしにアカウントを強制停止されました。教師は表現の自由の侵害を訴えてMeta(旧Facebook)を提訴。7年に及ぶ法廷闘争の末、2018年にパリ控訴院は同社の措置の不当性を認定しました。19世紀の油彩画が、シリコンバレーのAIアルゴリズムによる検閲体制に風穴を開けた瞬間でした。