1944年、兵庫県津名郡(現・淡路市)に生まれた藤本敏夫の若い頃は、戦後日本の急激な復興と社会矛盾の狭間にありました。同志社大学から慶應義塾大学経済学部へと進学した彼は、瞬く間に高揚する学生運動の渦中へと身を投じます。卓越した弁論能力と人を惹きつける人間味によって頭角を現し、社学同(社会主義学生同盟)を経て、1968年にはブント系全学連の委員長に就任しました。
羽田闘争や東大安田講堂事件など、街頭が催涙ガスと投石で覆われた激動期において、彼は常にデモ隊の先頭に立ち続けました。当時の警察庁記録や関係者の証言によると、彼は単なる教条主義者ではなく、人懐っこさと情熱で仲間を結束させる稀有なリーダーシップの持ち主だったと伝えられています。
しかし、運動の激化に伴い1968年の防衛庁突入事件などで凶器準備集合罪や公務執行妨害に問われ、逮捕・起訴される事態となりました。保釈と再逮捕を繰り返す逃避行と裁判の過程で、彼の前に現れたのが、当時すでに「誰もいない海」や「知床旅情」のヒットでスターダムを駆け上がっていた歌手の加藤登紀子でした。