瑞巌寺の起源は古く、平安初期の天長5年(828年)、慈覚大師円仁によって開山された天台宗「延福寺」に遡ります。鎌倉時代中期には北条時頼の保護を受けて臨済宗へと改宗し「円福寺」と名を改めましたが、戦国時代の動乱期を経て寺運は次第に衰退していました。この荒廃した霊場に目を留め、大再興を成し遂げたのが初代仙台藩祖・伊達政宗でした。
慶長9年(1604年)、政宗は自ら縄張り(設計構想)に立ち会い、紀州(現在の和歌山県)から銘木熊野杉を伐り出して海路で運ばせ、京都や根来から当代屈指の名工130名を招集しました。慶長13年(1608年)に鋳造された大鐘の銘文には、「山を号して松島と曰い、寺を名づけて瑞岩(巌)と曰う」と刻まれており、これが「瑞巌寺」という名称の初出とされています。足かけ5年の歳月を費やし、慶長14年(1609年)に現在の壮麗な伽藍が完成しました。
なぜ政宗は、財政的負担を押してまでこれほど豪華絢爛な大寺院を建立したのでしょうか。歴史学者の間では、徳川家康への政治的パフォーマンスとともに、万が一の軍事拠点としての機能を持たせていたという見解が有力視されています。本堂内部の床下には武者隠しを設ける余地があり、外郭を取り囲む巨木林や湾口に面した立地は、水上輸送と防衛の要所でした。さらに、天下人に対抗しうる「奥州王」としての教養と権威を内外に示すための精神的バウンダリー(境界線)の確立こそが、政宗の胸中にあった野心と祈りの正体だったと考えられています。