ヒップホップの歴史と起源をたどる旅は、1970年代初頭の米国ニューヨーク市へと行き着きます。当時のニューヨーク、とりわけサウスブロンクス発祥の地となったエリアは、高速道路の建設によるコミュニティの分断、白人中産階級の郊外流出、そして行政サービスの放棄によって、荒廃の極みにありました。街の至る所でビルの放火や崩壊が相次ぎ、若者たちはギャングチームを結成して縄張り争いを繰り広げる、まさに法と秩序が失われたスラム街だったのです。
この過酷な環境下で、歴史の歯車を動かした決定的な一日が存在します。1973年8月11日、サウスブロンクスのセジウィック街1520番地にあるアパートの娯楽室で開かれた妹の進学資金集めパーティー「Back to School Jam」にて、ジャマイカ移民の青年クール・ハーク(DJ Kool Herc)が画期的なプレイを披露しました。
クール・ハークは、フロアのダンサーたちが最も熱狂するのが、楽曲の間奏部分にあるドラムソロやパーカッションだけのパート(ブレイク)であることを見抜いていました。彼は2台のターンテーブルに同じファンクのレコード(ジェームス・ブラウンやジミー・キャスター・バンチなど)を乗せ、ブレイク部分を行き来させながら手動で繰り返し繋ぎ合わせる「メリーゴーランド」と呼ばれる技法を編み出します。延々と続くドラムのループこそが、後に「ブレイクビーツ」と呼ばれるヒップホップの基盤となりました。
さらに、かつて悪名高いギャング組織「ブラック・スペード」の幹部でありながら、非暴力の団結を呼びかける組織「ユニバーサル・ズールー・ネイション」を設立したアフリカ・バンバータ(Afrika Bambaataa)が、このストリートの動きを「ヒップホップ」と命名。「Peace, Love, Unity, and Having Fun(平和、愛、団結、そして楽しむこと)」を行動指針として掲げました。血を流し合うギャングの抗争が、ターンテーブルの技術、マイクによる言葉のキレ、そしてダンススキルの競い合いへと昇華された瞬間でした。