飢餓と寒波に耐えながら数か月にわたり包囲されたパリ市民にとって、ティエール率いる臨時政府がプロイセンに屈辱的な降伏を受け入れたことは耐え難い裏切りでした。1871年3月18日、政府軍がパリ国民衛兵の大砲を押収しようとした事件をきっかけに、労働者と市民が蜂起。「パリ・コミューン」と呼ばれる史上初の労働者による自治政府を樹立しました。 パリ・コミューンは政教分離、婦人参政権の推進、夜間労働の廃止など、当時としては極めて先進的な社会民主主義政策を打ち出しました。しかし、臨時政府軍はプロイセン軍の捕虜釈放協力を受けて軍を再建し、パリへ侵攻します。 1871年5月21日から28日にかけて行われた市街戦は「血の一週間(Semaine sanglante)」と呼ばれ、街中にバリケードが築かれ、チュイルリー宮殿や市庁舎が炎上しました。政府軍による徹底的な掃討作戦により、コミューン側の死者は約2万〜3万人、逮捕者は4万人近くに達したと推計されています。この凄惨な内乱の爪痕を乗り越え、フランスは王政復古を断念し、民主的な第三共和政を定着させていくことになります。
普仏戦争の真相を徹底解説!ビスマルクの謀略とナポレオン3世敗因の全貌
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