『不思議の国のアリス』にまつわる猫を語る際、多くの人が思い浮かべるのは迷宮のような森で出会う怪猫ですが、作中には明確に異なる2匹の猫が登場します。
1匹目は、物語の狂言回しとして絶大なインパクトを放つチェシャ猫(Cheshire Cat)です。公爵夫人の屋敷の台所で初めて登場し、木の上や森の分かれ道に神出鬼没に現れては、哲学的な問答でアリスを翻弄します。
2匹目は、アリスが現実世界で飼っている愛猫ダイナ(Dinah)です。アリスはウサギ穴に落ちていく最中も「ダイナが恋しがるわ」「ミルクをあげてくれたかしら」と心配し続け、地下の世界でも動物たち相手に「うちのダイナはネズミや鳥を捕まえるのがとても上手なの」と無邪気に語って恐怖に陥れます。ダイナは、アリスにとって「日常・現実・秩序」を象徴する心の拠り所として描かれています。
日本の読者の間でしばしば疑問視されるのが、「チシャ猫」と「チェシャ猫」の表記の違いです。原語の英語スペルは「Cheshire Cat」であり、イングランド中西部に実在するカウンティ(州)「Cheshire」に由来します。英語の発音記号は /ˈtʃɛʃ.ər/ であるため、「チェシャ」と転写するのが原音に近い表記です。ただし、昭和初期から中期にかけて出版された初期の翻訳本や一部の児童書で「チシャ猫」と表記された名残から、現在でも両方の名称が併用されています。ディズニーの公式表記や近年の文芸翻訳ではチェシャ猫に統一される傾向が主流です。
また、猫の種類についても興味深い検証がなされています。ジョン・テニエルが描いた原作の挿絵では、丸みを帯びた頭部とがっしりした体躯が特徴の英国伝統種ブリティッシュショートヘアがモデルとされています。一方、ディズニーアニメーションではデフォルメが施され、太い縞模様が印象的なトラ猫の意匠が採用されました。