大蔵省のルーツを辿ると、古代律令制の「大蔵省(おおくらのつかさ)」に行き着きます。明治維新直後の1869(明治2)年には「大蔵卿(おおくらきょう)」が設置され、大久保利通、伊藤博文、大隈重信といった近代日本の設計者たちがその座に就きました。当時は内政と財政を兼任する全権ポストであり、まさに国家建設の心臓部でした。
1885年に初代大蔵大臣として松方正義が就任して以来、歴代の大蔵大臣は日本の命運を左右する重大な財政判断を下してきました。その中でも歴史上最も傑出した存在として語り継がれるのが、計7度にわたって蔵相を務めた高橋是清です。
1930年代の昭和恐慌に際し、高橋是清は金本位制の停止を即座に断行。世界恐慌の荒波の中で通貨供給量を大胆に増やし、世界に先駆けて日本経済をデフレから脱出させました。この積極財政は、イギリスの経済学者ケインズの理論を先取りした「世界最先端の財政金融政策」として世界金融史に刻まれています。しかし皮肉にも、軍部が要求する過大な軍事予算の膨張を命がけで抑え込もうとした結果、1936年の二・二六事件で反乱軍の凶弾に倒れることとなりました。
戦後においても大蔵大臣は首相への登竜門であり、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫ら数々の総理大臣が蔵相時代に頭角を現しました。そして、その長い歴史の掉尾を飾ったのが宮澤喜一です。
宮澤喜一はすでに内閣総理大臣(1991〜1993年)を経験した長老政治家でしたが、1998年に小渕恵三首相から「金融再生の火消し役」として三下り半を突きつけられた直後の大蔵省を率いるよう懇請され、異例の再登板を果たしました。自著や当時の記者会見録によると、宮澤は「総理経験者が蔵相を引き受けるなど前例がない」という周囲の反対を押し切り、「日本の金融システムが崩壊すれば世界恐慌になる」と職命を引き受けました。破綻寸前の銀行へ公的資金を注入する枠組みを作り上げ、金融危機の沈静化に奔走した宮澤は、2001年1月5日に「最後の大蔵大臣」として退任し、翌日そのまま「初代財務大臣」へとスライド就任したのです。