インターネット上の掲示板やSNSでは時折、「佐藤二朗の演技はどれも同じに見える」「アドリブでふざけているだけではないか」といった冷ややかな意見が散見されます。福田雄一監督作品などで見せる、独特の言い淀みや吃音のようなテンポ、共演者を笑わせにかかる長回しの芝居が強烈に印象づけられているためです。
しかし、映画制作の現場や共演者たちの証言を丹念に検証していくと、その見解が決定的な誤認であることが浮き彫りになります。彼のアドリブに見える芝居の多くは、演出意図を汲み尽くした上での緻密な計算に基づいています。戯曲の構造を完全に把握した上で、シーンの緊張をあえて弛緩させたり、逆に弛緩した空気を異様な居心地の悪さへ変質させるための「調律」を行っているのです。
演劇社会学的な見地から分析すると、佐藤二朗のコミカルな演技は「同調圧力に対する違和感の提示」として機能しています。台詞通りに綺麗に流れるはずの日常会話に、あえて意味不明な相槌や不自然な沈黙を差し挟むことで、人間の滑稽さや脆さを浮き彫りにする手法です。これが福田雄一監督のシチュエーションコメディでは爆笑を生み、片山慎三監督のサスペンスでは底知れぬ恐怖へと反転します。同じアプローチの「間」を使いながら、作品のトーンによって全く異なる感情を観客に植え付けることこそ、彼が持つ高度な演技技術の正体です。