四面楚歌の由来は、中国の歴史書『史記』項羽本紀に記された紀元前202年の「垓下(がいか)の戦い」に遡ります。秦の滅亡後、天下の覇権を激しく争ったのが、圧倒的な武勇を誇る楚の覇王・項羽(こうう)と、人心掌握に長けた漢王・劉邦(りゅうほう)でした。
戦力で圧倒していた項羽軍でしたが、補給線の寸断や部下の離反が重なり、現在の安徽省宿州市周辺にあたる垓下の城郭へと追い詰められます。食糧も尽きかけ、兵力も激減した楚軍を、劉邦率いる漢軍連合の約30万の大軍が幾重にも完全包囲しました。
その夜、静まり返った包囲陣の四方から突如として響き渡ったのが、項羽の軍勢の故郷である「楚の国の歌(楚歌)」でした。これは劉邦の軍師である張良が仕掛けた心理作戦です。敵陣を取り囲む漢軍兵士たちに楚の民謡を一斉に歌わせることで、城内に籠もる楚軍に「故郷の楚の地はすでに漢に完全制圧され、これほど多くの楚の人間が敵側に寝返ったのか」と強烈な錯覚を抱かせたのです。
四方から聞こえる聞き慣れた故郷の歌を耳にした項羽は驚愕し、自著や史料に語り継がれる歴史的独白を残しました。『史記』には、項羽が夜中に起き上がり、「漢はすでに楚の地をすべて手に入れたのか。なぜこれほど楚の人間が多いのか」と愕然とした様が克明に記録されています。
死期を悟った項羽は、最愛の側室である虞美人(ぐびじん)の前で悲痛な「垓下の歌」を詠じました。
「力は山を抜き、気は世を蓋う。時に利あらず、騅(愛馬)も逝かず。騅の逝かざるを奈何にすべき。虞や虞や、汝を奈何せん」
(我が力は山を引き抜き、気迫は世界を圧倒した。しかし天運は味方せず、愛馬も進もうとしない。愛馬が走らぬのをどうしようか。そして虞よ、虞よ、そなたをどうすればよいのか)
この悲劇的な別れは、のちに京劇の名作『覇王別姫(はおうべっき)』の題材となり、現代まで語り継がれることになります。項羽はわずか数百騎で包囲を突破したものの、最終的に烏江のほとりで自刎(自害)し、31歳の若さで命を落としました。