映画が満月の変身ルールを定着させたとはいえ、人狼という怪物自体のモデルは中世ヨーロッパの実在の記録に無数に残されています。16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパでは、いわゆる「魔女裁判」と並行して「人狼裁判」が吹き荒れ、数千人もの人々が「狼に変身して家畜や人間を襲った」罪で処刑されました。当時の法廷証言や医師の手記を現代の医学的見地から再検証すると、そこには過酷な風土病と精神疾患の生々しい影が浮かび上がってきます。
狼男の医学的な元ネタとして有力視されているのが、以下の疾患です。
第一に挙げられるのが「狂犬病」です。狂犬病ウイルスに感染した野生動物や犬に噛まれることで発症し、中枢神経が侵されると極度の興奮状態、攻撃性の亢進、水を異常に恐れる恐水症、そして喉の痙攣による遠吠えのようなうめき声が生じます。夜間に徘徊し、狂乱状態で他者に噛みつく患者の姿は、当時の人々にとってまさに「人間が獣に変貌した姿」そのものでした。
第二に、全身の皮膚が黒く硬い体毛に覆われる極めて稀な遺伝性疾患「先天性全身性多毛症(アムブラス症候群)」です。中世においてこの疾患を持つ人々は、悪魔の呪いを受けた「狼人間」として見世物にされたり、異端審問で断罪されたりする過酷な運命を辿りました。
第三の要因は、ライ麦に寄生する麦角菌を摂取することで起きる「麦角アルカロイド中毒(エルゴティズム)」です。中世の貧民層が主食とした黒パンから摂取されたこの毒素は、幻覚や激しい筋肉の痙攣、手足の壊疽を引き起こします。集団で錯乱状態に陥った村人たちが「自分は狼になった」と叫びながら森を駆け巡った記録は、麦角中毒の典型症状と完全に合致します。
さらに精神医学の世界には、自らを狼や野獣であると固く信じ込み、鏡に映る自分の顔が狼に見えたり、生肉を貪り食おうとしたりする「臨床的狂狼症(クリニカル・ライカンスロピー)」と呼ばれる希少な妄想性障害が実在します。重度の統合失調症や双極性障害、脳の器質的病変に伴って発症するこの疾患は、文明社会の片隅に「人間の姿をした狼」を生み出し続けてきた精神病理の深淵を物語っています。