元寇やモンゴル帝国を巡っては、後世に作られた俗説やネット上の誤認が数多く存在します。その最たるものが「神風(台風)が吹いたから日本軍が一方的に助かった」という言説です。
確かに弘安の役において巨大な暴風雨が元軍艦隊に壊滅的な打撃を与えたのは歴史的事実です。しかし、戦局の趨勢はその前に決していました。文永の役を経験した鎌倉幕府は、博多湾沿岸に約20kmにわたる石築地(元寇防塁)を築き上げ、騎馬武者による白兵戦とゲリラ的な夜襲を展開。元軍の上陸を2カ月近くにわたって完全に阻止し続けました。船上で足止めされた元軍の兵士たちは衛生環境の悪化と疫病に苦しみ、士気はすでに崩壊寸前だった現場の記録が残されています。
さらに、フビライ率いる遠征軍の内情も一枚岩ではありませんでした。モンゴル人・高麗人からなる「東路軍」と、滅亡した旧南宋の兵士たちを中心とする「江南軍」の間には深刻な確執があり、作戦の統一が取れていませんでした。現場指揮官の足並みの乱れと、前哨戦における鎌倉武士の凄まじい防衛戦こそが、元軍の敗北を決定づけた本質的要因です。
もう一つの誤解は「フビライは領土欲に憑りつかれた無慈悲な破壊者」というイメージです。当時の世界を旅したマルコ・ポーロが『東方見聞録』で「人類が始まって以来、最も強大で、最も多くの人民と富を支配した君主」と絶賛したように、フビライの真骨頂は徹底した宗教的寛容とプラグマティズム(実利主義)にありました。信仰の自由を保障し、税さえ納めれば現地の風習に介入しない柔軟性こそが、広大な領域を統治できた秘訣でした。