この温かな詩句を生み出した金子みすゞの生涯と経歴は、あまりにも過酷な現実との戦いでした。1903年(明治36年)、山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)に生まれたみすゞ(本名・金子テル)は、向学心に富み、読書を愛する利発な少女として育ちました。
大正末期、20歳のときに雑誌『童話』に投稿した詩が西條八十に激賞され、「若き童謡詩人の中の巨星」と絶賛を浴びます。しかし、私生活では大きな悲劇が続きました。不本意な結婚、夫の女性問題や浪費、さらには当時不治の病と恐れられた淋毒の感染。追い打ちをかけるように、夫から創作と詩作仲間との文通を禁じられる「筆断ち」を命じられます。
昭和5年(1930年)、理不尽な離婚の末、最愛の娘・ふさえの親権を夫に奪われることを防ぐため、「娘を心の豊かな子に育ててほしい」と母に託す遺書を残し、26歳で服毒自死を遂げました。死の直前、みすゞは写真館で穏やかな微笑みをたたえた最後の肖像写真を撮影しています。
みすゞの死後、作品群は長らく歴史の闇に埋もれていましたが、児童文学者の矢崎節夫氏が16年間にわたる執念の捜索の末、1982年に実弟から512編の手書き遺稿集を発掘。現在では仙崎の生家跡に金子みすゞ記念館が開設され、国内外から多くの人々がその足跡を訪ねています。