八ツ鹿踊りのルーツを紐解く鍵は、江戸時代初期の政治力学と、一人の若き武将の葛藤にあります。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣における軍功により、徳川家康から伊予宇和島10万石を下賜されたのが、伊達政宗の長男である伊達秀宗でした。
秀宗は政宗の紛れもない第一子でありながら、側室の生まれであったこと、また豊臣秀吉の猶子となっていた複雑な政治的経緯から、仙台伊達本家の家督を継ぐことができませんでした。元和元年(1615年)、弱冠25歳で宇和島城へ入城した秀宗は、遠く離れた奥州仙台から多数の家臣、商人、職人、そして芸能者たちを伴っていました。当時、未開拓な土地も多く統治が困難を極めた南予の地で、秀宗は故郷仙台の伝統芸能であった「鹿踊(ししおどり)」を移植させ、領民との融和を図る統治策の一環として定着させたと伝えられています。
宇和島藩の公式記録や地元旧家の古文書によると、秀宗は自ら八ツ鹿の装束や道具の整備を命じ、藩の庇護のもとで芸能を洗練させました。故郷・仙台への尽きない思慕と、新天地で独立した藩を打ち立てるという強い気概が、荒々しい東北の踊りを四国の地で極めて雅やかな宮廷風の舞へと昇華させたのです。