コーヒー豆の内部には、焙煎の熱化学反応によって800種類以上もの揮発性有機化合物が生まれる。ピラジン類、フラン類、エステル類。それらが複雑に絡み合い、気体となって空気中へ解き放たれる。
近年のニューロサイエンス(神経科学)研究は、この香気が人間の大脳辺縁系――感情や記憶を司る脳の最深部――へダイレクトに届くメカニズムを次々に解明した。視覚や聴覚が論理的なフィルターを通るのに対し、嗅覚だけは0.2秒以下で感情のスイッチを切り替える。浅煎りのエチオピアが放つ柑橘系の香りを吸い込んだ瞬間、張り詰めていた自律神経が弛緩し、同時にアルファ波が優位になる。現代人が求める「覚醒」とは、カフェインによる強引な興奮ではなく、澄み渡る香気による明晰な集中力なのだ。