破局を回避すべく、1941年4月から野村吉三郎駐米大使らを中心に水面下で続けられたのが日米交渉でした。しかし、両者の隔たりはあまりにも巨大でした。日本側は「日中戦争の終結支援と石油供給の再開」を求め、米国側は「中国及び仏領インドシナからの全面撤兵」ならびに「日独伊三国同盟の実質的死文化」を絶対条件として要求しました。
交渉期限が迫る1941年11月26日、米国国務長官コーデル・ハルから日本側に手交された文書が、いわゆるハル・ノート(正式名称:合衆国及日本国間協定の基礎概略)です。
ハル・ノートには以下の要求が明記されていました:
- 中国全土および仏印からの日本軍・警察力の無条件・全面撤兵
- 重慶の蒋介石国民政府以外の政権(南京の汪兆銘政権や満州国)の否認
- 三国同盟の空文化・平和原則の受け入れ
戦後、「ハル・ノートは日本を戦争に引きずり込むための最後通牒(Ultimatum)だった」とする見方が一部で語られることがあります。しかし歴史検証上、ハル・ノートは形式的な宣戦布告前の最終通告ではなく、米国の原則的立場を再提示した覚書でした。問題の本質は、満州事変以来10年間にわたり十数万人規模の戦死者を出してきた日本陸軍にとって、中国全土からの撤退は国内政治的に絶対受け入れ不可能な条件となっていたという点にあります。この提案を日本政府と大本営は「事実上の降伏勧告」と受け止め、開戦決定の御前会議へと突き進みました。