事故発生当夜から翌朝にかけての日本航空123便 救助活動 経緯は、現代の防災・緊急即応体制のあり方に極めて大きな反省と転換点をもたらしました。
1985年8月12日18時56分の墜落直後、レーダー消失地点の特定を巡って情報が錯綜しました。「長野県側」「群馬県側」など位置情報が二転三転し、夜間の山岳地帯という険しい地形も災いして地上捜索部隊の現場到着は大幅に遅れました。航空自衛隊救難ヘリが現場上空に到達したものの、煙と火炎、傾斜地の悪条件から「生存者の発見は絶望的、夜間着陸不能」と判断され、本格的な陸路進出と救助活動は翌13日早朝へと持ち越されたのです。
夜明けとともに群馬県警機動隊、自衛隊、地元・上野村の消防団や山岳関係者が道なき崖を切り開きながらスギ沢に到達した午前10時過ぎ、奇跡の生存者 当時の救出状況が現実のものとなりました。折り重なった残骸の隙間から動く手や衣服が発見され、次々と4名が救出された瞬間、現場には歓声と緊張が走りました。この救助の遅れを巡る教訓は、その後の自衛隊・警察・消防のヘリ夜間救難体制や、災害派遣初動マニュアルの抜本的改定へとつながっています。