長年にわたり、桶狭間の戦いは「圧倒的不利な小勢の織田軍が、山中深くを迂回して今川軍の本陣に背後から奇襲をかけた一発逆転劇」として描かれてきました。江戸時代の軍記物や名著小説の影響で広まったこのストーリーですが、一次史料である太田牛一の『信長公記(しんちょうこうき)』の再検証によって、学界の定説は完全に塗り替えられています。
同史料によると、信長は清須城から善照寺砦、中島砦へと前進し、敵の目前を正面から堂々と進撃していました。織田軍の勝因は「奇襲」ではなく、緻密な情報戦と機動力を活かした「正面からの急襲突破」でした。今川軍2万5,000人に対し、信長の手勢は約2,000から3,000人。しかし義元本隊そのものは山間の窪地で休息中であり、数千規模に分散していたところを叩かれたのが実情です。
決戦直前に吹き荒れた局地的な豪雨が今川軍の視界と聴覚を奪い、雨上がりの刹那に信長隊が突撃。退却すらままならない泥濘の中で、信長の親衛隊が義元を討ち取りました。無謀な賭けではなく、敵の分断と天候変化を冷静に見極めた「勝算ある電撃作戦」だったという事実こそが、桶狭間の戦いの真の恐ろしさを物語っています。