京都の食文化を語る上で欠かせないのが、海を持たない盆地特有の保存食の発展です。若狭湾(小浜や敦賀)から京都へと至る「鯖街道」が有名ですが、にしんそばの主役であるニシンは、さらに遠い北海道の海から運ばれてきました。江戸時代中期から明治時代にかけて日本海を往来した商船群、すなわち北前船(きたまえぶね)がその架け橋でした。
当時、北海道の江差や小樽周辺で獲れた大量のニシンは、内臓と頭を取り除いて油を絞り、カラカラに乾燥させた「身欠きニシン」として加工されました。これが北前船に積まれて下関を回り、大坂へ、あるいは日本海側の港から陸路で京都へと運ばれたのです。冷蔵技術のなかった時代、常温で数ヶ月から半年以上も日持ちする身欠きニシンは、海産物に飢えていた京都の町衆にとって極めて貴重なタンパク源でした。京都の家庭料理「おばんざい」の代表格である「にしんなす」や「にしんと芋の炊き合わせ」が生まれたのも、この物流網が存在したからです。
この保存食をそばと融合させたのが、祇園四条に現存する「総本家にしんそば松葉」の二代目当主・松野与三吉(よろきち)でした。松葉の社史や当時の興行記録によると、誕生の年は明治15年(1882年)。当時、四条大橋の東詰にあった南座周辺は京都屈指の芝居街として賑わいを見せていました。芝居小屋に出入りする観客や役者衆は、幕あいの限られた時間で素早く栄養を補給できる食事を求めていました。
松野与三吉は、京都人が日常的に親しんでいた身欠きニシンをじっくりと甘辛く炊き上げ、熱々の温かいかけそばに合わせる着想を得ます。骨まで柔らかく煮たニシンの棒煮を出汁に沈めることで、澄んだ出汁に魚のコクが溶け出し、麺と一緒に手早く啜れる画期的な一杯が完成しました。単なる思いつきではなく、京の保存食文化、芝居町のファストフード需要、そして北前船の交易網という3つの要素が奇跡的に交差した必然のイノベーションでした。