長谷川昌幸氏は銚子商業高校で甲子園準優勝を経験し、1995年ドラフト1位で鳴り物入りで広島東洋カープに入団しました。入団当初は粗削りながらも、150km/hに迫る豪速球と落差の大きいフォークボールは球界随一のスケールを誇り、次代のエース候補として大きな期待を集めていました。
本格的に頭角を現したのは2000年代初頭のことです。背番号が45から伝統の背番号16へと変更された2002年、先発ローテーションの柱として自己最多となる13勝をマーク。無四球完封を記録するなど獅子奮迅の活躍を見せ、低迷期にあえいでいたカープ投手陣を牽引しました。しかし、その後は右肩や肘のコンディション不良、制球の乱れに苦しむシーズンが続き、好投と乱調を繰り返すジレンマに陥ります。
通算成績の数字だけを見れば、借金が先行しているため過小評価されがちです。しかし、当時はカープが長きにわたるBクラスに沈んでいた受難の時代でした。エース格として相手球団のエースと常に投げ合い、打線の援護が少ないなかでも黙々とイニングを稼ぎ続けたタフネスさは、チームを支えた紛れもない功績といえます。