熊野の山あいを流れる湯の谷川の河原に、木造の簡素な小屋がちょこんと建っています。この小屋の中に鎮座する天然岩をくり抜いたような湯船こそが、世界遺産に登録されている「つぼ湯」です。温泉そのものが世界遺産登録物件の構成資産として認められ、かつ一般の旅行者が実際に湯に浸かることができる場所は、地球上を探してもここ湯の峰温泉しか存在しません。
つぼ湯が世界遺産に選ばれた最大の理由は、熊野信仰と不可分に結びついた「祈りの歴史」にあります。平安の昔から、熊野本宮大社に参拝する人々は、まず湯の峰温泉に立ち寄り、湯に浸かって旅の垢と罪穢れを落とす「湯垢離」を行いました。自然崇拝と神仏習合が融合した文化的景観の重要なピースとして、その価値が国際的に認められたのです。
もう一つの大きな特徴が、「1日に7回色が変わる」と形容される不思議な湯の性質です。乳白色、青みをおびた白、透明、エメラルドグリーンなど、訪れるタイミングによって湯面が異なる表情を見せます。これは決してオカルトではなく、源泉に含まれる硫黄成分(硫化水素)が空気に触れて酸化する度合いや、微細な沈殿物(湯の花)のコロイド状態、さらには差し込む太陽光の屈折率が刻々と変化することによって生じる自然の科学現象です。
さらにこの地には、室町時代の説経節で有名な「小栗判官(おぐりはんがん)蘇生伝説」が色濃く残されています。毒殺されて異形の姿となった小栗判官が、照手姫の助けを得て湯の峰へ運ばれ、つぼ湯に浸かって元の勇壮な肉体を取り戻したという物語です。古くから湯の峰の泉質が、死者を蘇らせるほどの驚異的な治癒力を持つと信じられてきた証左といえます。