川柳と俳句の形式が完全に一致している理由は、両者が同じ「俳諧連歌(はいかいのれんが)」という一つの母体から生まれた双子だからです。室町時代から江戸時代にかけて、複数人で上の句(五七五)と下の句(七七)を交互に詠み継いでいく連歌が大流行しました。この共同作業の中で、2つの異なる潮流が派生しました。
俳句の源流となったのは、連歌の冒頭に詠まれる挨拶句である「発句(ほっく)」です。発句は座を開くにあたり、その場の季節を讃え、同席者や自然への敬意を表す役割を担っていました。そのため、「季語を入れること」「切れ字を使って余韻を持たせること」が厳密なルールとして義務付けられていたのです。この発句の芸術性を極限まで高めたのが江戸中期の松尾芭蕉であり、明治時代に至って正岡子規が「発句はそれ単体で完結した独立文芸である」と提唱し、新たに名付けたのが「俳句」でした。
一方、川柳の源流となったのは、連歌の遊戯的な側面から生まれた「前句付け(まえくづけ)」です。これは出題者が提示した「七・七」の前句(短句)に対して、参加者が気の利いた「五・七・五」の付句(長句)を付けて面白さを競う言葉遊びでした。江戸・浅草の点者(選者)であった柄井川柳(からいせんりゅう、1718〜1790)が選んだ付句集『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』が空前のベストセラーとなり、前句を切り離した「五七五」単体でも鑑賞に耐える独立した庶民文芸として定着しました。この選者の名前をとって、のちに「川柳」と呼ばれるようになったのです。
最初から格調高い儀礼・自然美の象徴として磨かれた「発句=俳句」と、庶民の知恵比べやウケ狙いの言葉遊びから独立した「前句付け=川柳」。歴史的出自を知れば、なぜ片方が自然を愛で、もう片方が世間を皮肉るのか、その必然性が鮮明に浮かび上がります。