日本における「水で走る車」の記憶を語る上で避けて通れないのが、2008年6月に大阪で大々的な記者発表を行ったベンチャー企業、ジェネパックス(Genepax)の存在です。当時、同社は「Water Energy System(WES)」と名付けた画期的なシステムを公開し、市販の軽自動車(マイクロカー)に搭載して実際に走行するデモンストレーションを披露しました。
「タンクに水(水道水、雨水、お茶でも可)を入れるだけで、膜電極接合体(MEA)により水素を発生させ、車載燃料電池を駆動させて走る」という発表内容は、テレビのニュース番組や一般紙でも大々的に報道され、原油高に悲鳴を上げていた当時の日本社会に絶大なインパクトを与えました。一部のメディアは「ノーベル賞級の大発明」「日本の技術が世界のエネルギー構造を一変させる」と無批判に持ち上げ、瞬く間に社会現象となったのです。
しかし、興奮冷めやらぬ発表会の直後から、物理学者や自動車エンジニアから猛烈な疑義が噴出しました。水を分解して水素を取り出すには、水素が燃焼して水に戻る際に放出するエネルギー以上の外部エネルギーを注ぎ込まなければなりません。同社は「触媒の特殊な化学反応によって無給電で水素を生成できる」と強弁したものの、外部の第三者研究機関による客観的な検証要求には一切応じませんでした。
綻びが出るまで時間はかかりませんでした。2009年初頭には開発資金の枯渇と技術的裏付けの欠如が露呈し、特許出願の取り下げが相次ぎました。そして同年、ジェネパックスは公式サイトを突如閉鎖し、事実上の解散・破綻へと追い込まれました。現在、同社が存在した痕跡はネット上のアーカイブと当時の報道記録の中にしか残っていません。結局のところ、実験車両を動かしていた動力源は「水」ではなく、あらかじめ車載バッテリーに蓄電されていた電力や、反応時に消耗する使い捨ての金属反応剤に過ぎなかったというのが業界関係者の一致した見解です。