なぜ私たちの脳は、苦痛や恐怖を感じる対象をあえて求めてしまうのでしょうか。近年の脳機能イメージング研究(fMRI)によって、恐怖を感じている最中と、その直後の脳内ネットワークにおいて、極めてダイナミックな化学変化が起きていることが判明しています。
恐怖の引き金を引くのは、大脳辺縁系に位置する「扁桃体(Amygdala)」です。視覚や聴覚から危機的情報(怪物、凶器、凄惨な映像など)が飛び込むと、扁桃体は瞬時に警報を鳴らし、交感神経を刺激してアドレナリンやノルアドレナリン、ストレスホルモンであるコルチゾールを一気に血中に放出させます。これにより、心拍数の急上昇、呼吸の促迫、瞳孔の散大など、全身が「闘争か逃走か(Fight or Flight)」の臨戦態勢に突入します。
しかし、ここで決定的な役割を果たすのが、思考や理性を司る「前頭前野(Prefrontal Cortex)」の介入です。映画館の座席に座っているときや、自室のベッドでスマートフォンを眺めているとき、前頭前野は「心拍数は上がっているが、肉体的な危険は一切存在しない」「これは演出された映像、あるいは画面の向こう側の出来事である」と瞬時に状況を分析・評価します。
この「危機のアラート」と「安全の認知」が同時に成立した瞬間、脳内で劇的な反転が起こります。迫り来る脅威が去った、あるいは安全であると確信した脳は、生命の危機を脱した安堵のシグナルとして、脳内報酬系から快楽物質である「ドーパミン」や内因性オピオイド(エンドルフィン)を大量に放出するのです。恐怖による強烈な緊張状態から、一気に安全圏へと着地した落差によって、脳はジェットコースターのような激しいカタルシス(快感)を覚えます。この快楽物質のシャワーこそが、「怖いのにまた見たい」と渇望してしまう生理学的な依存構造の正体です。
ペンシルベニア大学の心理学者ポール・ロジン(Paul Rozin)名誉教授は、この現象を「良性マゾヒズム(Benign Masochism)」と名付けました。激辛料理を食べることやサウナの極限状態に耐えることと同様に、「身体が本能的に危険を警告しているにもかかわらず、実際には肉体的な損傷を伴わない安全な環境」を脳が認識したとき、人間は負の刺激を純粋なエンターテインメントとして消費できる極めて高度な知性を発揮します。