湯の峰温泉を語る上で欠かせないのが、室町時代から語り継がれる中世芸能・説経節の名作『小栗判官(をぐりはんがん)』の伝説です。
政敵の計略により毒殺され、餓鬼の姿となって現世に打ち捨てられた小栗判官。彼の体を哀れんだ妻・照手姫(てるてひめ)が引く車に乗せられ、気の遠くなるような苦難の末に辿り着いたのが、この湯の峰温泉でした。判官がつぼ湯の霊泉に49日間浸かったところ、業病がたちどころに癒え、元の美男子の姿へと蘇生を遂げたと伝えられています。
この「死と再生」の物語は、現世の罪業を滅ぼして生まれ変わるという熊野信仰の根幹と深く結びついています。平安から鎌倉期にかけて、熊野本宮大社へ参詣する巡礼者たちは、険しい熊野古道を歩き通したのち、まず湯の峰の湯垢離によって心身を清浄にリセットしてから本宮の神前へと進みました。
2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録された際、つぼ湯が「世界で唯一入浴できる世界遺産」と認定された背景には、単なる古い温泉というだけでなく、1000年以上にわたり受け継がれてきた生きた祈りと巡礼の文化遺産であるという決定的な事実が存在しています。