乙女の像がこの地に建てられた背景には、十和田湖の観光開発と自然保護に生涯を捧げた先人たちの熱意がありました。昭和28年(1953年)、十和田国立公園指定15周年を記念し、湖の発展に寄与した第4代青森県知事・武田千代三郎、小笠原耕一、そして文人大町桂月の功績を顕彰する記念碑の建立計画が持ち上がります。
当時の青森県知事・津島文治(作家・太宰治の実兄)ら関係者は、当代随一の巨匠であった高村光太郎に制作を懇請しました。当初、70歳に達していた高齢の光太郎は健康状態や自らの境遇を理由に固辞しましたが、津島らの熱烈な説得と「十和田の原生林の美」に心を動かされ、ついに受諾を決意します。
光太郎は一切の妥協を排し、東京都中野区のアトリエで助手の舟越保武(後に日本を代表する彫刻家となる)らの協力を得て約1年余りをかけて制作に没頭しました。完成した像は、高さ2.1メートルのブロンズ像2体。台道には十和田湖畔から切り出された硬質な十和田石(安山岩)が敷かれ、自然との完全な一体化が図られました。
1953年10月21日に行われた除幕式において、光太郎は湖畔の冷気の中で除幕の紐を引きました。本作の完成からわずか3年後の1956年、光太郎はこの世を去ります。名実ともに「高村光太郎の最後の傑作」となった乙女の像は、巨匠の芸術人生の集大成として今も湖畔に君臨しています。