司馬光がこれほど膨大な歴史書を書き上げた背景には、純粋な学術的好奇心だけでなく、激しい政治抗争(北宋の新法・旧法の党争)がありました。
当時、北宋は財政難と軍事的な弱体化に苦しんでいました。第6代皇帝・神宗は、気鋭の改革派官僚・王安石を登用し、国家主導の経済改革「新法」を断行します。これに対し、司馬光は「拙速な急進改革は民を疲弊させ、国家の秩序を破壊する」として猛烈に反対しました。伝統を重んじ漸進的な改善を求める司馬光ら「旧法派」と、富国強兵を目指す王安石ら「新法派」の対立は修復不能な亀裂へと発展します。
政争に敗れた司馬光は、1070年に政治の中心地・開封を去り、副都である洛陽へと退きました。この洛陽での隠棲生活(約15年間)こそが、編纂作業を劇的に加速させる契機となります。
司馬光にとっての執筆目的は極めて明確でした。歴史の教訓を通じて「国家を正しく治めるための真の知恵」を皇帝に提示し、現実の急進的な政策に警鐘を鳴らすこと。漢代の劉恕や唐代の範祖禹といった一流の歴史学者たちを助手に迎え、私情を排した客観的記述に徹したことで、不朽の歴史大著が完成したのです。