遊郭が洲崎へと去った後、根津八重垣町の一帯は急速に住宅地や商業地へと姿を変えました。大正期の関東大震災や昭和の東京大空襲を経験したため、当時の妓楼建築そのものは現存していません。しかし、現在の根津一丁目の街並みを注意深く観察すると、随所に遊郭時代の空間構造が色濃く残されていることが分かります。
現在でも体感できる主な痕跡は以下の通りです。
■ 短冊状の規則正しい地割り
根津神社周辺の入り組んだ古道とは対照的に、旧八重垣町エリア(言問通り南側・不忍通り東側)は整然とした碁盤目状の区画が残っています。これは明治初期に遊郭として大規模開発された際の土地区画がそのまま踏襲されている証拠です。
■ 「藍染川」暗渠と境界の段差
遊郭の西側を流れていた藍染川(現在は暗渠化され「へび道」などの愛称で親しまれる通り)は、外界と遊郭を隔てる境界線の役割を果たしていました。通りの高低差や路地のカーブに、当時の結界の面影が宿っています。
■ 路地に残る古い石垣と擁壁
本郷台地と根津の低地を隔てる崖線(がけせん)沿いには、明治・大正期に組まれた古い擁壁や煉瓦の基礎が点在しており、山の手と下町の境界にあった歓楽街の地形的特徴を今に伝えています。