ノーベル賞受賞当時、田中氏は管理職ではない「主任」の肩書でした。国内屈指の歴史を持つ精密機器メーカーにおいて、一介の現場技術者が世界的な名誉を受けたことは、日本企業の組織運営にも大きな波紋を広げました。
学歴として東北大学工学部電気工学科を卒業していた田中氏は、化学の専門教育を大学で修めた研究者ではありませんでした。そのため、社内でも純粋な学術肌というよりは、装置の開発や試作を愚直に繰り返す現場のエンジニアとして知られていました。
受賞後、島津製作所は田中氏を管理職へ昇進させるのではなく、生涯研究に没頭できる特例待遇を創設しました。これが「田中耕一フェロー」(現・シニア・エグゼクティブ・フェロー)という役職です。役員と同等の処遇を受けながらも、部下の勤怠管理や経営会議への出席といったマネジメント負担を極力排除し、研究費とチームを自由に差配できる環境を整備しました。この島津製作所の柔軟な意思決定は、その後の日本企業における専門職登用制度の先駆けとなりました。