公式記録である西村兼文の『新選組始末記』や元隊士たちの証言を総合すると、山南敬助切腹の理由および山南敬助脱走の真相には、単一の原因ではなく複合的な要因が絡み合っています。中でも土方歳三との確執と、近藤勇と山南敬助の間の亀裂を決定づけたのが「屯所の西本願寺移転問題」でした。
壬生村の前川邸・八木邸を手狭に感じていた近藤と土方は、広大な西本願寺へ本拠地を移す計画を進めました。しかし西本願寺は長州藩や勤王派志士と深いつながりを持つ寺院です。山南は「寺院を暴力で威圧し、土足で踏み入るような暴挙は武士の道義に反する」と強硬に反対しました。しかし、近藤らは山南の諫言を一顧だにせず、移転を断行します。かつて試衛館で苦楽を共にした近藤が、権力闘争に溺れて徳川幕府の暴力装置へ成り下がっていく姿に、山南は深い絶望を抱いたと伝えられます。
さらに追い打ちをかけたのが伊東甲子太郎との関係でした。元治元年11月、近藤の熱心な勧誘によって入隊した伊東は、北辰一刀流の達人であり、卓越した国学の知識を持つ理論派でした。近藤は伊東を破格の待遇となる「参謀」に据え、政策決定の相談相手として寵愛します。これにより、これまで隊の頭脳を務めてきた山南の居場所は完全に失われました。
池田屋事件において山南は負傷(一説には利き腕の切創や精神的打撃)を負い、刀を握ることが難しくなっていたという説もあります。実権を失い、思想的にも孤立した山南は、慶応元年2月、置き手紙を残して姿を消しました。それは私利私欲の逃亡ではなく、組織の暴走を命がけで止めようとした「抗議の脱走」でした。