元親の没後、長宗我部家は急速に崩壊の坂を転がり落ちていきます。家系図上、次男の親和や三男の親忠が存在したにもかかわらず、元親は信親の面影を求めて四男の長宗我部盛親(もりちか)を強引に後継者に指名しました。この強引な家督継承は家中に対立の火種を残すことになります。
関ヶ原の戦い(1600年)において、盛親は西軍に与したものの、情勢判断を誤り戦場へ進軍できぬまま敗戦を迎えます。領国に戻った盛親は兄・親忠を殺害した疑いなどをかけられ、徳川家康によって土佐一国を完全に改易(没収)されてしまいました。
浪人となり京都で寺子屋の師匠などをしながら雌伏の時を過ごした盛親は、慶長19年(1614年)、豊臣家の招きに応じて「大坂の陣」へと参戦します。失った旧領・土佐の回復を懸け、五人衆の一角として八尾・若江の戦いなどで猛将・藤堂高虎軍を壊滅寸前に追い込むなど凄まじい奮戦を見せました。しかし大坂城は落城。盛親は逃亡の末に捕縛され、慶長20年(1615年)、京都の六条河原で斬首となり、大名としての長宗我部家嫡流は完全に滅亡を迎えました。